当帰湯(とうきとう)は、胸部から背中・腹部にかけての痛みを和らげるために用いられる漢方薬のひとつです。
血行を良くして身体を温め、「血(けつ)」や「気(き)」の巡りを整えることで痛みの原因にアプローチします。特に冷えによって症状が悪化するタイプの胸腹部の痛みや、体力が低下して顔色が悪い(貧血ぎみ)方の痛みに適しています。以下のような症状・体質に対して効果が期待できます。
- 背中にゾクゾクと寒気を感じ、お腹が張って差し込むように痛む
- 胸から背中にかけてチクチクと痛みが走る(肋間神経痛のような症状)
- 冷え性で顔色が悪く疲れやすい体質で、腹痛や胸の痛みを訴える
このように、当帰湯は体内の巡りが滞り、冷えによって痛みが現れるような場合に用いられる処方です。唐代の中国医学書『千金方(せんきんほう)』に「心腹が絞るように痛み、虚弱で冷えによる満痛を治す」と記されており、古くから冷えが原因で増悪する胸腹部の痛みの治療に用いられてきました。現代の漢方の教科書ではあまり目立ちませんが、症状が当てはまる場合には肋間神経痛や胃腸の不調に伴う腹痛などの痛みを和らげる効果が期待できます。
よくある疾患への効果
肋間神経痛・胸の痛み
肋骨に沿って走る神経の痛み(肋間神経痛)は、胸から背中にかけて鋭い痛みが生じることがあります。特に寒い場所にいると痛みが悪化したり、ストレスで症状が出る場合、当帰湯が用いられることがあります。身体を温め血の巡りを改善する作用により、神経痛による刺すような痛みを緩和し、背中のぞくぞくする寒気を和らげます。心臓の検査では異常がないのに狭心症のような胸の痛みが続くケースでも、体質が虚弱で冷えが強ければ当帰湯が有効なことがあります。
産前・産後の冷えによる腹痛
妊娠中や出産後は血液循環が変化し、体力も消耗するため、下腹部の痛みや冷えに悩まされることがあります。古来より、当帰湯は産前産後の冷えによる腹痛に対して用いられてきました。出産で失われた血を補い、身体を温めることで、子宮の収縮に伴う下腹部の痛みや冷え症状を緩和します。ただし、妊娠中・授乳中の服用は必ず医師に相談のうえで行われます。
同様の症状に使われる漢方薬との使い分け
胸やお腹の痛みに対しては、当帰湯のほかにもいくつか類似した漢方処方があります。症状や体質の違いによって最適な処方を選ぶことが大切です。ここでは、当帰湯と比較されやすい処方をいくつか取り上げ、その特徴と使い分けのポイントを解説します。
柴胡桂枝湯(10)
柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)は、当帰湯と同様に胸部の痛みや胃腸の不調に用いられる処方です。ただし冷えはそれほど強くなく、みぞおちから脇にかけて張りや圧痛が見られる場合に適しています。体力が中等度で、背中の冷えや強い虚弱がないケースでは柴胡桂枝湯が選択されます。
桂枝加朮附湯(18)
桂枝加朮附湯(けいしかじゅつぶとう)は、冷え性で体力が低下した方に用いる点で当帰湯と似ていますが、主に手足の関節痛や神経痛を対象とした処方です。腹痛や腹部膨満感といった症状はなく、四肢の冷えや関節のこわばりが中心となる場合に適しています。もし肩こりや関節痛がメインでお腹の張りがないような場合には、当帰湯ではなく桂枝加朮附湯が用いられることが多いです。
大建中湯(100)
大建中湯(だいけんちゅうとう)は、極端に体力が衰えて四肢が氷のように冷え、激しい腹の冷痛や鼓腸(腸にガスが溜まって張る)を呈するような場合に使われる処方です。お腹の冷えによる痛みという点では当帰湯と共通しますが、大建中湯の方が適応となる人は背中や胸の痛みを伴わず、全身的な虚弱がより顕著です。
人参湯(32)
人参湯(にんじんとう)は、胃腸の機能低下による腹痛や下痢、嘔吐などに用いられる処方です。冷えや腹痛という点で当帰湯と似ていますが、人参湯を使うのは当帰湯よりもさらに体力が低下し、背中の痛みが見られないケースです。全身が極度に疲労しきって食欲も低下し、四肢の冷えや強い倦怠感があるような場合に用います。
副作用や証が合わない場合の症状
当帰湯は比較的マイルドな処方ですが、体質に合わない場合や長期間・大量に服用した場合、副作用が現れる可能性があります。
- 重篤な副作用:当帰湯には甘草(カンゾウ)が含まれています。甘草を長期大量に使用したり、他の甘草含有製品と併用したりすると、体内のカリウムが低下して筋力低下や血圧上昇を引き起こす「偽アルドステロン症」という副作用が生じるおそれがあります。手足のむくみやしびれ、全身のだるさ、血圧の上昇などの症状が現れた場合は、すみやかに専門医に相談してください。また、同じ理由で低カリウム血症やミオパチー(筋力低下症)のある方への投与は禁忌とされています。
体質(証)が合わない場合、漢方薬は十分な効果が得られないばかりか症状が悪化することもあります。特に体に陰虚(いんきょ:潤いが不足した熱性の体質)傾向がある方が当帰湯を服用すると、のぼせや口の渇きなどが強まる可能性があります。適応でない証での使用は避け、専門家による証の見立てが重要です。
併用禁忌・併用注意な薬剤
当帰湯と一緒に服用してはいけない薬剤は特別にはありませんが、以下の点に注意が必要です。
- 他の甘草含有製剤との併用:甘草(カンゾウ)を含む漢方薬(例:芍薬甘草湯(68)など)やグリチルリチン酸を含む薬剤(強力ネオミノファーゲン®注射剤等)を当帰湯と同時に服用すると、甘草の重複によって偽アルドステロン症のリスクが高まります。漢方薬やサプリメントを自己判断で複数併用することは避け、現在服用中の薬や健康食品があれば必ず医師・薬剤師に伝えてください。
含まれている生薬の組み合わせ、なぜその生薬が選ばれているか
当帰湯は、10種類の生薬を組み合わせて構成されています。主要な構成は「当帰(トウキ)」「芍薬(シャクヤク)」「黄耆(オウギ)」「人参(ニンジン)」「桂皮(ケイヒ)」「乾姜(カンキョウ)」「山椒(サンショウ)」「半夏(ハンゲ)」「厚朴(コウボク)」「甘草(カンゾウ)」です。ここでは、それぞれの生薬が持つ作用と、当帰湯の中での役割について解説します。
当帰(トウキ)
当帰は血液を補い巡らせる作用(補血・活血)に優れた生薬で、当帰湯の処方名にもなっている主薬です。貧血や冷えによる痛みを和らげる効果があり、古くから女性の月経痛や産後の回復に用いられてきました。体を温めながら滞った血流を改善し、痛みの原因となる瘀血(おけつ:血行不良)を取り除きます。当帰湯では、不足した血を補って全身に巡らせることで、冷えによる胸腹部の痛みを根本から和らげる役割を果たしています。
芍薬(シャクヤク)
芍薬は筋肉のこわばりをほぐし、痛みを鎮める作用を持つ生薬です。同時に血を養う働きもあり、当帰との相乗効果で血行を改善しつつ痛みを緩和します。特にお腹の痛みに対して鎮痙(ちんけい:筋肉の痙攣を抑える)効果が期待でき、胃腸の痛みや月経痛などにも用いられます。当帰湯では、当帰と芍薬の組み合わせによって虚弱な方の血液循環を高め、冷えによる腹部の刺すような痛みをやわらげます。
黄耆(オウギ)
黄耆は気(エネルギー)を補い、体表の防御力を高める生薬です(補気・固表作用)。免疫力を高めて疲労を回復させ、汗のかきすぎやむくみを改善する効果もあります。当帰湯では、失われた気力を補充しつつ、体の表面を引き締めて余分な水分の漏出(虚汗)を防ぐ役割があります。冷え性で顔色が悪いような人は気血両方が不足していることが多いため、黄耆が加わることで全身のエネルギーが底上げされ、痛みに対する抵抗力も高まります。
人参(ニンジン)
人参(高麗人参)は胃腸の機能を高め、全身のエネルギー産生を助ける代表的な補気薬です。消化吸収を促進して血や気を生み出す源を養うため、虚弱で疲れやすい方の体力回復に用いられます。当帰湯において人参は、他の生薬の吸収を助けつつ、冷えで低下した消化機能を立て直す役割を担っています。人参と黄耆の組み合わせで気力を増強し、痛みによる消耗を防ぐことで、患者さんの回復力を高める効果が期待できます。
桂皮(ケイヒ)
桂皮(シナモン)は体を温め、血行を促進する生薬です。末梢の血管を拡げて冷えを改善し、痛みの原因となる血行不良を取り除きます。桂皮には発汗促進や鎮痛の作用もあり、寒さで滞った気血を巡らせて胸部や背中の痛みを和らげます。また、桂皮は甘草と組み合わせることで処方全体の調和を図り、他の生薬の働きを高める役割も果たします。
乾姜(カンキョウ)
乾姜(かんきょう)は生姜を乾燥させた生薬で、強力に体を温める作用があります。特にお腹を温めて冷えによる痛みや下痢を止める効果があり、「温中散寒薬(おんちゅうさんかんやく)」として用いられます。当帰湯では、腹部の冷えを取り、内臓の血流を改善することで、差し込むような腹痛を和らげます。乾姜は、同じく身体を温める山椒や桂皮と協力して体内の冷えを追い出し、全体の代謝を高める働きも担っています。
山椒(サンショウ)
山椒(さんしょう)は日本の食卓でもおなじみの香辛料ですが、生薬としては胃腸を温めて痛みを鎮める作用を持ちます。山椒に含まれる成分は舌にピリピリと痺れる感覚を与えますが、これは鎮痛作用の表れで、腸の蠕動(ぜんどう)を活発にしてガスを排出させる効果もあります。当帰湯において山椒は、冷えで停滞した腸の動きを促し、鼓腸や腹部膨満感を改善するとともに、痛みを感じにくくする役割を果たします。
半夏(ハンゲ)
半夏(はんげ)は余分な水分や粘液(痰湿)を乾かし、嘔吐や吐き気を鎮める作用を持つ生薬です。喉や胃にもたれついた痰を除去し、気の巡りをスムーズにする働きがあります。ただし生の半夏は毒性があるため、生姜で加工した「姜半夏(きょうはんげ)」が用いられます。当帰湯では、半夏が胃腸内の水滞を捌いて膨満感を軽減し、他の生薬の吸収を助けています。ストレスや冷えで発生した胃腸の不快感を取り除き、胸腹部の気の巡りを整える縁の下の力持ちです。
厚朴(コウボク)
厚朴(こうぼく)は樹皮由来の生薬で、気を巡らせて胃腸内の停滞(食滞やガス)を解消する作用があります。お腹の張りや満腹感、ゲップやガスが多いといった症状を和らげるのに用いられます。当帰湯では、厚朴が腹部膨満感や胸のつかえを取り、呼吸を楽にしてくれる役割を果たしています。冷えと虚弱で動きの悪くなった胃腸に刺激を与え、他の生薬が働きやすい環境を整えるのにも貢献しています。
甘草(カンゾウ)
甘草(かんぞう)は甘みのある生薬で、他の生薬の調和剤として働きます。胃を保護しつつ炎症を鎮める作用があり、複数の生薬の個性を丸くまとめて副作用を抑える重要な役割があります。例えば半夏や山椒など刺激の強い生薬の当たりを和らげ、弱った胃腸への負担を軽減します。また、筋肉の緊張を緩める作用もあるため、痛みによってこわばった腹筋や肋間筋をほぐす助けにもなります。ただし甘草を含む当帰湯を大量に服用したり他の甘草含有薬と併用したりすると、前述の偽アルドステロン症の原因となり得ます。そのため、甘草を含む薬の重複には注意が必要です。
当帰湯にまつわる豆知識
- 名前の由来:処方名の「当帰」とは、生薬の当帰(トウキ)のことです。文字通り「帰るべきところに戻す」という意味を持ち、病で乱れた身体を本来の健康な状態に“帰”す力があるとの期待から名付けられたとも言われます。当帰湯では、この当帰が主薬として据えられており、血を補い巡らせることで痛みを改善に導きます。
- 歴史:当帰湯は中国・唐代の名医 孫思邈(そんしばく)が著した『千金方』に収録された古方です。その後日本でも伝えられ、江戸時代には狭心症のような胸の痛みに用いられた記録があります。近年では処方数は多くありませんが、肋間神経痛などに対して有効例が報告されており、古方の中でも再評価されつつある処方です。
- 現代での処方解釈:現代漢方では、当帰湯は「大建中湯でカバーできない胸背部の痛みを伴うケース」に適した処方と解釈されることがあります。つまり、強い腹部の冷えとガス腹に加え、背中や胸の痛みがある場合に当帰湯が効果を発揮しやすいということです。また、配合生薬の性質上、ストレスが影響する胃腸症状や神経痛にも応用できる点が特徴です。
- 身近な生薬の活用:当帰湯に含まれる山椒(サンショウ)は、日本料理で鰻の蒲焼にふりかける香辛料として知られています。山椒の痺れるような辛味成分は、胃腸を刺激して働きを高め、痛みを感じにくくさせる効果があります。このように普段の食材が漢方では薬効を発揮することは珍しくなく、日頃の食生活が健康維持に繋がることを示す例と言えるでしょう。
まとめ
当帰湯は、冷えによって血行が滞り、胸部や腹部に痛みが現れる方に適した漢方薬です。身体を内側から温めつつ不足した血や気を補い、滞った巡りを改善することで、肋間神経痛や過敏性腸症候群などの胸腹部の痛み・違和感を和らげる効果が期待できます。
比較的副作用の少ない処方とされていますが、証に合わない場合や他の薬剤との併用には注意が必要です。漢方薬は患者さん一人ひとりの体質に合わせて使い分けることが大切なため、専門家の診断に基づいて適切に使用しましょう。
当クリニックでは患者様の症状や体質(証)をじっくりと伺い、一人ひとりに合った漢方薬をご提案しています。
証の判断・漢方薬の選択に悩む場合は長崎クリニック浜町漢方外来までぜひご相談ください。