甘麦大棗湯の効果・適応症
甘麦大棗湯(かんばくたいそうとう)は、心身の興奮を鎮めて感情の不安定さを改善する効果を持つ漢方薬です。主に精神的な緊張や不安、不眠などを和らげる目的で処方され、特にイライラや不安感、悲哀感など情緒が不安定な状態を整えるのに役立ちます。漢方の伝統では「五臓」のひとつである「心(しん)」が精神安定を司るとされており、その働きが弱まると不安や不眠、情緒不安定が現れると考えます。甘麦大棗湯はまさに「心」の機能低下による精神不安を改善する処方で、古典では女性のヒステリー症状(漢方では「臓躁〈ぞうそう〉」と呼ばれる状態)の治療薬として記載されています。この「臓躁」とは、理由もなく悲しくなって泣きたくなり、ときに何かに憑かれたように錯乱し、頻繁にあくびが出るような症状と説明されており、甘麦大棗湯はそのような精神不安定に用いるとされています。
現代の臨床でも、甘麦大棗湯は不眠症や神経症、うつ傾向など心の不調に幅広く用いられています。処方の目安となる症状は、精神的興奮(落ち着きのなさ)、不安、不眠のほか、悲観的な言動や涙もろさなどです。また身体所見として、腹直筋の緊張や筋肉のけいれん、生あくびが見られる場合にも適するとされています。こうした精神症状が中心で体力が低下している方に対し、甘麦大棗湯は心身を緩めて安定させる効果を発揮します。
よくある疾患への効果
甘麦大棗湯は具体的に次のような疾患・症状に対して応用されています。
不眠症や不安神経症への効果
慢性的なストレスや心労で眠れない、眠りが浅いといった不眠症状に対し、甘麦大棗湯は穏やかな鎮静効果で睡眠をサポートします。特に緊張や不安感が強くて寝つけない人や、ちょっとしたことで神経が高ぶってしまう神経症の方によく用いられます。体力があまり無く、精神的に疲れやすいタイプで、夜間に考えごとが頭から離れず眠れない場合に適しています。寝入りばなにため息やあくびが出る、不安で胸がドキドキする、といった症状を和らげ、徐々に心を落ち着けて自然な眠りに誘う効果が期待できます。
ただし西洋医学の睡眠薬のように即座に強い眠気をもたらすものではなく、あくまで体質改善を通して睡眠の質を向上させる漢方薬です。軽度の不眠や不安であれば甘麦大棗湯のみで改善が見られることもありますし、症状が強い場合は西洋薬と併用して徐々に漢方に切り替えるような使い方をすることもあります。
子どもの夜泣き・かんの虫への効果
甘麦大棗湯は小児科領域でもよく使われます。代表的なのが赤ちゃんや幼児の夜泣きです。夜泣きとは、乳幼児が夜間に理由もなく激しく泣き出す症状で、親御さんにとっても大きな負担となります。甘麦大棗湯は体力のまだ十分でない子どもにも使用でき、夜間に不安定になりがちな神経を落ち着かせてあげる働きがあります。実際に、興奮しやすかったり寝つきが悪かったりするお子さんに甘麦大棗湯を飲ませると、気持ちが穏やかになり泣き止んでくるケースがあります。また、かんの虫(神経過敏で癇癪を起こしやすい小児の状態)にも効果があるとされ、夜中に何度も起きて泣く、日中も情緒が不安定でぐずりやすい、といったお子さんの体質改善に用いられます。小児のひきつけ(痙攣)に対する適応もあり、例えば激しく泣きすぎて呼吸を止めてしまうような「憤怒けいれん」と呼ばれる症状にも有効だったとの報告があります。ただし、明らかなてんかん発作や熱性けいれんの場合は抗けいれん薬による治療が第一選択であり、甘麦大棗湯はあくまで補助的な位置づけです。
甘麦大棗湯は甘い風味で飲みやすいため、子どもにも嫌がられにくいのも利点です。実際に顆粒をお湯に溶かしてシロップのようにしたり、ミルクに混ぜたりすると、多くの子どもは甘みを感じて抵抗なく飲んでくれます。そのため漢方治療の入門として、小児の夜泣きにまず甘麦大棗湯を試してみることも多くあります。場合によっては、発達障害(ADHDなど)で多動傾向があり夜間落ち着かないお子さんに処方されることもありますが、この場合も根本治療ではなく症状緩和目的です。
女性の情緒不安定(産後うつ・更年期など)への効果
甘麦大棗湯は女性のメンタルケアにも伝統的に使われてきました。古典で「婦人臓躁」と記されたように、出産後や更年期などホルモンバランスの変化する時期の女性は、情緒が不安定になりやすいものです。産後に理由もなく悲しくなって涙が止まらない、イライラと落ち着かず眠れない、といった産後うつ・マタニティブルーの症状に対し、体力の消耗した産婦でも飲める穏やかな処方として用いられます。また更年期の女性で、抑うつや不安、不眠を訴える方にも適します。更年期障害では一般に加味逍遙散(24)など他の漢方薬が有名ですが、体力が極度に落ち込み悲哀感が強いようなケースでは甘麦大棗湯が奏功することがあります。いずれにせよ、甘麦大棗湯は虚弱な女性の精神不安に焦点を当てた処方です。気分の落ち込みやすい方、些細なことで涙が出てしまう方などがこれを服用すると、ゆっくり気持ちが安定し前向きさを取り戻す一助となります。実際の臨床では、必要に応じて他の漢方薬や西洋薬と組み合わせながら、精神面のケアに甘麦大棗湯を組み込むケースが見られます。
同様の症状に使われる漢方薬との使い分け
精神不安や不眠など、甘麦大棗湯と似た症状に使われる他の漢方薬もいくつか存在します。症状の現れ方や体質の違いによって、それらと使い分けることが大切です。ここでは代表的な処方を3〜5種類挙げ、甘麦大棗湯(72)との違いを比較してみます。
抑肝散(54)との比較
抑肝散(54)は、釣藤鈎(ちょうとうこう)や柴胡など7種類の生薬からなる処方で、もともとは小児のひきつけ(痙攣)を抑える目的で考案されました。現在では神経が高ぶってイライラするタイプの不眠症や神経症に広く使われており、認知症の周辺症状(怒りっぽさや興奮)を和らげる目的でも有名です。甘麦大棗湯と同じく子どもの夜泣きやかんの虫に使われることもありますが、症状が怒りっぽさや攻撃的な興奮を伴う場合は抑肝散が選ばれる傾向があります。例えば癇癪を起こして暴れるようなお子さんや、不安よりも怒りが強い大人の神経症では、甘麦大棗湯より抑肝散の方が適しています。抑肝散は「肝(かん)の高ぶり」を鎮める処方で、イライラや怒りを抑える効果が強いのが特徴です。
一方、甘麦大棗湯は「心」を補って悲哀感や不安感を癒す処方と言えます。同じ精神症状でも、興奮系か抑うつ系かで使い分けるイメージです。なお、抑肝散にも甘草が含まれるため、後述する副作用(偽アルドステロン症)には共通して注意が必要です。
柴胡加竜骨牡蛎湯(12)との比較
柴胡加竜骨牡蛎湯(12)(さいこかりゅうこつぼれいとう)は、比較的体力がある人向けの処方で、精神不安や動悸、不眠、便秘など多彩な症状を伴う場合に用いられます。柴胡、黄芩、桂枝などに加え竜骨・牡蛎といった鎮静作用のある鉱物も含む11種の生薬から成り、主にストレスによる自律神経失調や更年期の精神不安、高血圧に伴う神経症状などに処方されます。甘麦大棗湯との違いは、患者さんの体力や症状の強さです。柴胡加竜骨牡蛎湯は体力中等度以上で胸脇苦満(みぞおちから脇にかけて張りを感じる)や便秘傾向があるような実証寄りの人に向きます。例えばストレスフルな環境で神経が昂り、高血圧気味で寝付きが悪いような場合に適しています。
一方、甘麦大棗湯はそこまで体力がなく、胸のつかえや便秘といった身体の強い症状を伴わない虚証寄りの人に向きます。極端に言えば、柴胡加竜骨牡蛎湯は「エネルギッシュだが神経過敏」な人向き、甘麦大棗湯は「エネルギー不足でメンタルが落ち込みやすい」人向きと言えるでしょう。ただし両処方とも不安や不眠に使われる点では共通しており、実際の患者様では虚実が入り交じることも多いため、専門家が細かく証を見極めて処方を決定します。
桂枝加竜骨牡蛎湯(26)との比較
桂枝加竜骨牡蛎湯(26)(けいしかりゅうこつぼれいとう)は、甘麦大棗湯と同様に虚弱な人の精神不安に使われる処方です。桂枝湯(けいしとう)という身体を温める基本方剤に、精神安定作用のある竜骨・牡蛎を加えた構成で、体力中等度以下で疲れやすく神経過敏な人によく用いられます。不眠症、神経質、小児の夜泣き、夜尿症(おねしょ)など幅広い適応を持ち、こちらも精神を落ち着ける代表的な処方のひとつです。甘麦大棗湯との違いを挙げると、桂枝加竜骨牡蛎湯は桂枝(シナモンの枝)を含むため身体を温める作用があります。そのため、神経症状に加えて冷え症や動悸、尿トラブル(夜間頻尿やおねしょ)のある場合に適しています。例えば神経質で些細なことが気になり眠れない上に、手足が冷えやすかったり緊張するとトイレが近くなったりするような人には、甘麦大棗湯より桂枝加竜骨牡蛎湯の方が合うでしょう。また桂枝加竜骨牡蛎湯は男性の機能性障害(EDや早漏など)に精神的要因が絡んでいる場合にも使われることがあります。
逆に言えば、甘麦大棗湯はそういった身体症状を伴わず、純粋に精神面の不安・不調が目立つ場合に選択されることが多い処方です。両者とも小児の夜泣きに使われますが、甘麦大棗湯はより甘味が強く飲みやすい点で子どもの初期治療に使われやすい傾向があります。
酸棗仁湯(103)との比較
酸棗仁湯(103)(さんそうにんとう)は、酸棗仁(さんそうにん、ナツメの種子)を主薬とした5種類の生薬から成る処方で、「心身が疲れて眠れない」タイプの不眠症によく使われます。体力が落ち、血も不足しているような虚弱な方で、不安と不眠が続いているケースに適し、寝汗をかくような人にも用いられます。甘麦大棗湯と同じく精神を安定させる効果がありますが、酸棗仁湯は特に睡眠の質を高めることに重きを置いた処方です。主薬の酸棗仁は強い滋養安神作用(心を落ち着け眠りを深くする作用)があり、虚弱な不眠に対してしっかりとした催眠効果を発揮します。一方、甘麦大棗湯は酸棗仁湯ほど睡眠専門の処方ではなく、どちらかというと情緒不安定そのものを改善して結果的に眠れるようにするイメージです。例えば、心身がボロボロに疲れきって眠れないような場合は酸棗仁湯を、悲しみや不安が募って眠れない場合は甘麦大棗湯を選ぶ、といった使い分けになります。
ただ実際には両者を併用したり、症状や体質の経過に応じて処方を切り替えたりすることもあります。酸棗仁湯には甘草が含まれていないため、長期に服用しても甘麦大棗湯より偽アルドステロン症のリスクが少ない利点がありますが、反面甘みが少なく飲みにくい場合もあり、患者様の嗜好に合わせて調整されることもあります。
副作用や証が合わない場合の症状
甘麦大棗湯は比較的穏やかな処方で副作用の少ない漢方薬ですが、成分の一つである甘草(カンゾウ)に由来する副作用には注意が必要です。甘草にはグリチルリチン酸という成分が含まれ、長期大量服用により偽アルドステロン症と呼ばれる重篤な副作用が起こることがあります。偽アルドステロン症になると、体内の電解質バランスが崩れて血圧上昇、浮腫(むくみ)、体重増加、低カリウム血症などが生じます。具体的な症状としては、手足のだるさやしびれ、筋力低下(力が入らない)、酷い場合は筋肉の麻痺やけいれんが現れることもあります。これは体内でアルドステロンというホルモンに似た作用が起こり、ナトリウムや水分が貯留してカリウムが失われてしまうためです。幸い、適正な用量であれば滅多に起こりませんが、高齢者や腎機能の低い方、既に利尿剤を使っている方などではリスクが高まります。甘麦大棗湯を服用中に筋肉の異常なだるさ・こわばり、急な体重増加やむくみなどを感じた場合は、服用を中止してすぐに医師に相談してください。また定期的に血液検査でカリウム値などをチェックすることもあります。
そのほかの副作用としては、胃腸の不調がまれに報告されています。甘麦大棗湯は小麦や大棗など甘味の強い生薬が主体のため、人によっては胃もたれや食欲不振を感じることがあります。特に胃腸が弱くすぐにお腹が張ってしまうような方には、甘味の多いこの処方が合わず膨満感を生じるケースがあります。また糖分を多く含む処方でもあるため、血糖値に影響する可能性も指摘されています。糖尿病をお持ちの方が服用する場合は、処方量や服用期間について主治医とよく相談し、必要に応じて血糖管理に注意してください。小麦を含む処方なので、極めて稀ですが小麦アレルギーのある方はアレルギー症状(発疹やかゆみなど)に注意する必要もあります。
もし証(しょう)に合わない場合、すなわちその人の体質・症状に甘麦大棗湯が適切でない場合は、期待する効果が出ないばかりか新たな不調を感じることがあります。例えば、実証で熱がこもっているような人(顔が紅潮し脈が力強く、不眠もイライラが強いタイプ)に甘麦大棗湯を用いても、甘く穏やかすぎて症状を抑えきれず、かえって落ち着かない状態が続くことが考えられます(このような場合は前述の柴胡加竜骨牡蛎湯(12)などが適します)。反対に、冷えが強くエネルギーが不足しすぎている人にとっては、甘麦大棗湯だけでは力不足で症状が改善しないかもしれません。また、もともと胃腸が弱い人にとっては甘麦大棗湯の甘味が負担となり、服用後に胃の張りや食欲低下を感じることがあります。効果が感じられない場合や体調の変化を自覚した場合は、無理に飲み続けず処方の変更を検討することが大切です。漢方薬は患者様一人ひとりの証に合わせてこそ真価を発揮しますので、「なんとなく合わない」と感じる際も遠慮なく主治医にお伝えください。
併用禁忌・併用注意の薬剤
甘麦大棗湯を服用する際に注意が必要な併用薬剤があります。特に利尿剤やステロイド剤との併用には注意してください。利尿薬(フロセミドなど)や副腎皮質ステロイド(プレドニゾロンなど)はいずれも体内のカリウムを低下させる作用がありますが、甘麦大棗湯に含まれる甘草も低カリウム血症を引き起こす可能性があります。そのため、これらを併用すると低カリウム血症が起こりやすくなり、重篤な不整脈や筋力低下を招くリスクが高まります。また、心不全の患者さんが使う強心配糖体(ジギタリス製剤)との併用も要注意です。ジギタリスは血中カリウムが低いと中毒を起こしやすくなるため、甘麦大棗湯との併用で低カリウム状態になると危険です。
他の漢方薬との併用についても、甘麦大棗湯と同じく甘草を多く含む処方とは注意が必要です。例えば芍薬甘草湯(68)や六君子湯(43)など甘草を含む漢方薬を複数同時に服用すると、甘草の摂取量が増えて偽アルドステロン症のリスクが高まります。従って、既に甘草含有の漢方を服用中の場合は追加で甘麦大棗湯を使ってよいか医師が慎重に判断します(場合によっては減量したり、別の処方に置き換えたりします)。市販薬や健康食品にも甘草エキスを含むものがあるため、サプリメントや漢方ドリンクを自己判断で併用するのも避けましょう。
さらに、アルドステロン症やミオパチー(筋疾患)をお持ちの方は甘麦大棗湯の服用自体が禁忌(原則使用不可)とされています。これらの疾患では偽アルドステロン症の副作用が出やすく、症状を悪化させる恐れがあるためです。また、高血圧や腎臓病で治療中の方、糖尿病の方も併用には注意が必要です。甘麦大棗湯を処方される際は、現在服用中の薬剤や持病について必ず医師・薬剤師に申告しましょう。
含まれている生薬の組み合わせと選ばれている理由
甘麦大棗湯は甘草・小麦・大棗の3つの生薬のみで構成される非常にシンプルな処方です。それぞれ食品にもなる生薬であり、穏やかな作用を持ちます。この組み合わせにはしっかりとした意味があり、3つの生薬がお互いに協力して精神不安定を改善します。
- 小麦(ショウバク)…小麦はイネ科コムギの種子、いわゆる私たちが食べる小麦そのものです。漢方では特に「浮小麦(ふしょうばく)」といって水に浮く成熟前の軽い小麦を用いることがあります。小麦には心を緩める鎮静作用があるとされ、不安やイライラを和らげ、寝汗を止める効能も伝えられています。実際、小麦を煎じた液には神経の興奮を鎮める成分が含まれているとの報告もあります。甘麦大棗湯の中では、小麦が乱れた精神を穏やかにし、悲しみを受け止める役割を担っていると考えられます。また、小麦デンプンは消化されると麦芽糖になりエネルギー源となるため、虚弱な身体に優しい栄養補給も兼ねています。
- 大棗(タイソウ)…大棗はクロウメモドキ科ナツメの果実、いわゆる「棗(なつめ)」です。乾燥させたナツメは古来より滋養強壮に使われ、「一日食三棗、終生不顕老(1日に3粒の棗を食べれば年を取らない)」という言い伝えがあるほど女性の美容と健康に良い果実です。漢方では脾(消化器)を補い血を養い、精神を安定させる作用があるとされています。甘麦大棗湯では、大棗が身体のエネルギーと血を補充し、心に安定をもたらす役割を果たします。また大棗は甘味が強く、他の生薬の作用を緩和調整する働きもあります(「十棗九酸」といわれ酸っぱい生薬を10とすれば棗の甘みは9の力で中和すると言われるほどです)。3つの生薬だけの処方でしっかり効果を発揮するのは、大棗がそれだけ強力に滋養強壮しつつ心身をリラックスさせる力を持っているからです。現代の分析では、大棗には豊富な糖類のほかサイクリックAMP(細胞内伝達物質)が比較的多く含まれることが判明しており、これが中枢神経に何らかの影響を及ぼしている可能性も示唆されています。
- 甘草(カンゾウ)…甘草はマメ科カンゾウの根で、非常に甘みの強い生薬です。醤油やお菓子の甘味料として使われるほど甘味が強く、「諸薬を調和する」作用を持つことから多数の漢方処方に配合されています。甘麦大棗湯においても、甘草は他の生薬と協調しながら全体の効果を底上げするキープレーヤーです。具体的には、消耗した気を補い(補気作用)、筋肉の緊張を緩める働きがあります。例えば甘草を大量に含む芍薬甘草湯(68)は筋けいれんやこむらがえりの特効薬として有名ですが、甘麦大棗湯でも腹直筋の攣急(お腹の筋肉のひきつり)を和らげる作用は甘草によるところが大きいと考えられます。また甘草自体にも鎮静・抗ストレス作用が報告されており、少量で処方全体の精神安定効果を高めています。ただし前述のとおり、副作用(偽アルドステロン症)のリスクも持つ生薬ですので、その点で両刃の剣でもあります。適切な範囲で使えば非常に有用な生薬であり、甘麦大棗湯でも甘草の甘味と調和作用なくして処方の完成はなかったと言えるでしょう。
以上のように、甘麦大棗湯は「甘いもの」ばかり3つを組み合わせた珍しい処方です。甘味には中医学で「緩和」(緊張をほぐす)作用があるとされ、心身のこわばりをゆるめるのに理にかなった配合なのです。小麦・大棗・甘草はいずれも日常的に食べられる素材であり、「医食同源」を体現する処方とも言えるでしょう。実際、そのまま煎じた液はほんのり甘く飲みやすいため、現代では顆粒エキス剤をクッキー生地に混ぜて焼き、おやつ感覚で子どもに食べさせるといったユニークな工夫をする方もいます。薬というより体に優しい甘い飲み物・食べ物に近い感覚で取り入れられる点も、甘麦大棗湯の大きな特徴です。
甘麦大棗湯にまつわる豆知識
歴史・由来: 甘麦大棗湯は中国の医学書『金匱要略(きんきようりゃく)』に収載された処方で、今から1800年以上前の漢代に活躍した医聖・張仲景(ちょうちゅうけい)によって記載されました。先述のとおり、書中では「婦人臓躁」の治療薬とされています。当時は現代のような精神科の概念がなかったため、原因不明の情緒不安定は狐憑き(きつねつき)などと表現されることもありました。狐憑きとは狐狸の妖怪に取り憑かれたように人格が変わる現象のことで、今で言うヒステリー発作や一種の精神疾患だったと考えられます。甘麦大棗湯は、そうした狐憑きとも形容される激しい情緒不安定を鎮める薬として昔から知られていたわけです。ある意味、「お祓い」の代わりに服薬することで心の平穏を取り戻していたのでしょう。
名前の意味: 「甘麦大棗湯」という名称は、その構成生薬の頭文字を取ったものです。「甘」は甘草、「麦」は小麦、「棗」は大棗を指し、まさに甘草・小麦・大棗だけで煎じたお湯(湯)」というシンプルなネーミングです。字面から味の想像がつく通り、出来上がった煎じ薬はほんのり甘く飲みやすい液になります。漢方薬というと苦いイメージがありますが、甘麦大棗湯は例外的に甘くて美味しい漢方薬です。古来より「甘麦大棗湯はおいしい薬だから子どもでも飲める」と言われ、子どもからお年寄りまで幅広い年代に受け入れられてきました。
現代での利用: 現代日本でも、甘麦大棗湯は医療用エキス顆粒(ツムラ等の製剤)として広く流通しており、保険適用エキス製剤の番号は72番です。医療現場では単独処方はもちろん、他の漢方薬に甘麦大棗湯を併用して精神安定剤的に使うこともあります。例えば、体力を補う補中益気湯(41)に甘麦大棗湯を合わせて不安を和らげたり、抑肝散(54)に甘麦大棗湯を少量足して泣きやすさを改善したり、といった応用がなされます。また、市販薬としても第二類医薬品に分類される甘麦大棗湯製剤が販売されていますので、比較的入手しやすい処方です(ただし自己判断で長期連用することは避け、専門家の指導を仰いでください)。
実例エピソード: 昔の漢方医の逸話として、甘麦大棗湯にまつわる興味深い話があります。ある医師が激しい癇癪発作を起こす子どもを診察した際、その子に狐憑きの噂があったものの、甘麦大棗湯を服用させたところ徐々に落ち着きを取り戻し発作が収まったそうです。このことから地域で「狐払いの甘麦大棗湯」と呼ばれ評判になったという逸話です。真偽のほどは定かではありませんが、それだけ精神に対する効果が顕著に現れるケースがあるという示唆とも言えます。
また現在の研究でも、甘麦大棗湯の投与によってストレス誘発性の不安行動が軽減したとの報告や、自律神経失調症状の改善が見られたとの報告があります。西洋薬の抗不安薬や睡眠薬に比べマイルドではありますが、生体に本来備わる安定化機構を優しく後押しすることで、長期的には精神症状の根本改善につながる可能性が期待されています。
まとめ
甘麦大棗湯(72)は、わずか三味の生薬からなるにもかかわらず心と身体を穏やかに癒す力を持った処方です。不眠や不安、情緒不安定といった症状に対して、体力のない方や子どもでも安心して服用できる優しい漢方薬と言えるでしょう。ただし、効果を十分に発揮するためには患者様の症状と体質(証)に合っていることが重要です。同じ不眠や不安でも体質により最適な処方は異なりますので、自己判断での服用ではなく専門家の診断を仰ぐことが望まれます。甘麦大棗湯は決して劇的に気分を高揚させる薬ではありませんが、ゆっくりと心のゆらぎを整え、本来の安定した状態へと導いてくれる頼もしい処方です。
当クリニックでは患者様の症状や体質(証)をじっくりと伺い、一人ひとりに合った漢方薬をご提案しています。
証の判断・漢方薬の選択に悩む場合は長崎クリニック浜町漢方外来までぜひご相談ください。