炙甘草湯の効果、適応症
炙甘草湯(しゃかんぞうとう)は、心臓の働きを助ける目的で用いられてきた漢方薬の一つです。特に動悸(どうき)や不整脈(ふせいみゃく)といった心臓の鼓動に関する症状を和らげる効果が知られています。また、全身の気血(きけつ)を補い、弱った体力を回復させる働きがあり、長引く病後の衰弱や息切れ、疲労感の改善にも用いられます。
古典的には「脈結代(みゃくけつだい)」(脈が途切れ途切れになる症状)や「心悸(しんき)」(心臓がドキドキする症状)に対する処方として記載されており、心拍リズムの乱れを整える処方として知られてきました。現代でも、心臓の鼓動が弱く不規則になりがちな状態(例:期外収縮や心房細動など)に対して、体質に合えば補助的に用いられることがあります。
炙甘草湯は、体力がおとろえて疲れやすい人に向く処方です。具体的には、顔色が優れず貧血気味で、動くとすぐに息切れしたり動悸がする方、あるいは寝汗やほてりがありつつも心身が衰弱している方に適しています。また、慢性的な乾いた咳が続き、痰(たん)が少なく喉が渇くような肺の虚弱状態にも効果が期待できます。心臓と肺を中心に気(エネルギー)と血(栄養)を補い、乱れた脈を落ち着かせることで、以下のような症状・疾患に用いられます。
よくある疾患への効果
動悸・息切れ(心臓神経症や貧血など)
日常生活で少し動いただけで心臓がドキドキしたり、息切れしてしまうような場合に、炙甘草湯が用いられることがあります。例えば、貧血や過労により心臓に十分な血液やエネルギーが行き渡らず、階段を上っただけで動悸が激しくなるような方に対し、本方が体力強化と心拍安定に役立つことがあります。炙甘草湯は人参や大棗といった生薬で体力を補い、心臓の筋肉に栄養を与えることで心拍の乱れを整え、脈を力強くするとされています。その結果、動悸や息切れが起こりにくくなり、日常動作が楽になることが期待できます。ただし、動悸の原因が明らかな心疾患による場合は、西洋医学的な治療を優先しつつ、補助的に漢方を併用する形になります。
心臓疾患に伴う不整脈
心臓に持病がある方や高齢者で、脈が飛ぶ・乱れる(不整脈)症状に悩むケースにも炙甘草湯が検討されます。たとえば、心筋炎の回復期や心臓の手術後などで心機能が低下し脈が弱く不規則になっているような場合です。本方は古くから「脈を復する(ふくする)」、すなわち失われた脈の力を取り戻す薬と言われ、心拍数の安定化に寄与するとされています。炙甘草湯を服用することで心筋の血流や栄養状態が改善され、脈拍の乱れが緩和されたとの報告もあります。ただし、重篤な不整脈では漢方のみでの対応は困難なため、必ず循環器専門医の治療を受けた上で補助療法として用いるようにします。
虚弱体質における長引く咳
大病を患った後や高齢で体力が落ちている方で、乾いた咳が長引く場合にも炙甘草湯が処方されることがあります。典型的なのは、肺結核の後遺症や慢性の呼吸器疾患で肺が弱り、痰があまり出ないのにコンコンと空咳が続くような状態です。このような虚弱な肺の症状に対し、炙甘草湯は肺を潤しつつ呼吸機能を助ける働きが期待できます。生薬の麦門冬や地黄が肺や喉の乾燥を潤し、咳による消耗を和らげます。同時に人参や甘草が身体全体のエネルギーを補給し、咳き込みで疲弊した体力の回復を促します。
実際に、体が弱って肺が乾燥した「肺陰虚(はい・いんきょ)」と呼ばれるタイプの咳に対して、炙甘草湯が咳嗽緩和に有効だった例があります。ただし、感染症やぜんそく発作など急性期の咳には適さないため、そうした場合は他の治療を優先します。
同様の症状に使われる漢方薬との使い分け
心臓の動悸や脈の乱れに対しては、炙甘草湯以外にも症状や体質に応じていくつかの漢方薬が使い分けられます。代表的な処方をいくつか紹介します。
苓桂朮甘湯(39)
苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)はめまいや動悸が、水分代謝の滞りによって起こる場合に用いられる処方です。心臓に余分な水分が停滞すると動悸や胸のザワザワ感を生じることがあり、苓桂朮甘湯は体内の余分な水を捌いて症状を改善します。炙甘草湯と比べると利水作用(余計な水をさばく力)が強く、めまい・ふらつきを伴う動悸に適しています。例えば、更年期の女性でめまいとともに動悸が起きる場合や、メニエール病のように内耳の水分滞留で心悸亢進が起こるケースで使われることがあります。逆に言えば、苓桂朮甘湯は体力中等度以上で水太り傾向の方に向く処方であり、痩せ型で血虚・乾燥傾向の強い方には向きません。そのような場合には、潤いを補う炙甘草湯が検討されます。
桂枝加竜骨牡蛎湯(26)
桂枝加竜骨牡蛎湯(けいしかりゅうこつぼれいとう)は、神経が高ぶりやすく不安感や緊張を伴う動悸に用いられる処方です。心臓の鼓動が気になって眠れない、些細なことで胸がドキッとする(いわゆる心臓神経症)といった症状に適しています。竜骨(化石化した骨)と牡蛎(カキの殻)が心身を鎮める作用を持ち、桂枝加竜骨牡蛎湯は精神不安による動悸を落ち着かせるのが特徴です。炙甘草湯が主に心そのものの栄養不足を補うのに対し、桂枝加竜骨牡蛎湯は精神面の安定を図って結果的に動悸を和らげます。例えば、寝る前に不安が募って動悸がする場合や、子供の夜尿症・思春期の神経過敏によるドキドキ感などにも使われます。ただし、こちらの処方は比較的体力がある程度残っている人向けで、極度に衰弱した人の不整脈には効果が不十分なことがあります。そのような重度の虚弱には炙甘草湯など補養効果の高い処方が検討されます。
帰脾湯(65)
帰脾湯(きひとう)は血の不足(貧血)と気の不足が同時にある方の動悸や不眠に用いられる処方です。心と脳に十分な血液が行かず不安感や動悸が起こる、という「心脾両虚(しんぴりょうきょ)」の状態を改善する目的で使われます。炙甘草湯と同様、動悸や息切れを訴える虚弱な方に適しますが、帰脾湯の特徴は精神症状への効果です。酸棗仁(さんそうにん)や遠志(おんじ)といった生薬が不安感や不眠を和らげるため、動悸に加えて寝つきが悪い、夢を多く見る、精神的な落ち込みがあるような方に向いています。例えば、過労や心労で食欲不振と不眠を伴う動悸がある場合、帰脾湯で胃腸を立て直しながら心血を補うことで症状の改善が期待できます。一方で、帰脾湯は炙甘草湯ほど心拍リズムそのものを直接整える力は強くないとされます。脈拍の不規則さが目立つ場合には、より強く心を補う炙甘草湯が選択されることがあります。
真武湯(30)
真武湯(しんぶとう)は、冷えとむくみを伴う虚弱な方の動悸に使われる処方です。心臓の陽気(ようき:体を温めるエネルギー)が極端に不足すると、全身が冷えて水分代謝が滞り、心拍が弱く不安定になります。真武湯は附子(ぶし)という強力な温めの生薬を含み、体を温めながら水分を排出することで、心臓に負担をかけている余分な水を取り除きます。そのため、心不全の初期のように足のむくみや尿量減少を伴い、なおかつ脈が弱く乱れるようなケースで補助的に用いられます。炙甘草湯と比べ、真武湯は温める力が非常に強く、汗が出やすく手足が冷たいタイプの虚弱に向きます。逆にほてりがある人には不向きです。両者を比較すると、冷えが強く水分停滞が目立つ動悸には真武湯、乾燥や血虚が目立つ動悸には炙甘草湯というように使い分けられます。
副作用や証が合わない場合の症状
炙甘草湯は心身を優しく補う比較的マイルドな処方ですが、体質に合わない場合や長期・多量に服用した場合、副作用が現れる可能性があります。まず注意したい副作用として、胃腸障害があります。甘味の強い生薬が多く含まれるため、人によっては食欲不振、胃のもたれ、吐き気、軟便・下痢などの胃腸症状を生じることがあります。服用中にこれらの症状が続く場合は、一旦中止して医師に相談してください。また、皮膚のかゆみや発疹などのアレルギー反応がまれに起こることがあります。服用後に皮膚の異常を感じた際も、早めに医療機関へご相談ください。
中でも特に重篤な副作用として知られるのが偽アルドステロン症です。炙甘草湯には甘草(カンゾウ)が大量に含まれており、長期間の多用や他の甘草含有製品との併用によって、体内のカリウムが不足し血圧上昇やむくみを引き起こす恐れがあります(これが偽アルドステロン症と呼ばれます)。さらに進行すると筋力低下や痙攣(けいれん)などの低カリウム血症による症状が現れたり、重度の場合は四肢の脱力(ミオパチー)を招くことがあります。実際、炙甘草湯を含む甘草成分の摂取で低カリウム血症による不整脈が起きた報告もありますので注意が必要です。むくみが強く出たり、脱力感や血圧上昇が見られた場合は、すみやかに専門医に相談してください。
また、証(しょう)──すなわち体質・症状のパターンが合わない場合、期待される効果が得られないばかりか症状が悪化することがあります。例えば、実証傾向で体力が充実している人や、体内に余分な水分や熱がこもっているタイプの動悸に炙甘草湯を用いると、甘味によるこもった感じや胸の張り感が増す可能性があります。本来、炙甘草湯は虚弱な方向けの滋養強壮薬なので、**「のぼせが強い」「食欲旺盛で胃もたれしやすい」**といった方にはかえって不向きです。そのような場合には別の漢方薬が検討されます。逆に体が冷えてむくみが強いケースでは前述の真武湯などが適するように、症状に合わせて処方を選ぶことが大切です。
併用禁忌・併用注意な薬剤
炙甘草湯には阿膠(あきょう)や桂枝のような刺激性の強い生薬は含まれておらず、絶対的な併用禁忌とされる薬剤は多くありません。しかし、その主成分である甘草の影響から、以下のような場合には併用に注意が必要です。
- 利尿薬や副腎皮質ステロイド剤との併用: 炙甘草湯の利尿作用および甘草の作用により、これらの薬(例:フロセミドなどの利尿剤、プレドニゾロンなどのステロイド剤)と一緒に服用すると体内のカリウムが失われやすくなる可能性があります。カリウム低下は筋力低下や不整脈を招く恐れがあるため、利尿薬・ステロイド薬を服用中の方は、本方を併用する際に医師の監督下で経過を観察し、血液検査などで異常がないか確認することが望まれます。
- 強心薬(ジギタリス製剤など)との併用: 炙甘草湯の服用によってむくみが改善し循環状態が変化すると、心不全治療薬などの効き目に影響が出る場合があります。特にジギタリス製剤はカリウム濃度の影響を受けやすいため、炙甘草湯との併用でカリウム低下が起こると薬効が強まるリスクがあります。強心薬や抗不整脈薬を使用中の方が炙甘草湯を併用する際は、医師にその旨を伝え、体調変化に注意してください。
- 抗凝血薬(ワルファリン等)との併用: 一般に甘草や人参などを含む漢方薬は、血液凝固や薬物代謝に影響を及ぼす可能性が指摘されています。炙甘草湯自体に明確な凝固阻止作用は報告されていませんが、ワルファリンなど抗凝血薬を服用中の方は念のため定期的に血液凝固値をチェックするなど慎重な経過観察が必要です。
- 他の漢方薬・サプリメントとの併用: 炙甘草湯と作用の似た生薬(例えば甘草や人参、桂枝など)を含む漢方薬を併用すると、生薬成分が重複し副作用リスクが高まる可能性があります。特に甘草含有の漢方(例:補中益気湯(41)や芍薬甘草湯(68)など)との併用は、偽アルドステロン症のリスクを高めるため注意が必要です。また、サプリメント類との相互作用も考えられるため、自己判断での併用は避け、現在服用中のものがあれば必ず医師・薬剤師に伝えてください。
含まれている生薬の組み合わせ、なぜその生薬が選ばれているか
炙甘草湯は、その名の通り甘草(カンゾウ)を主役とし、全部で9種類の生薬を組み合わせて作られています。配合されている生薬は地黄(じおう)、麦門冬(ばくもんどう)、桂枝または桂皮(けいひ)、大棗(たいそう)、人参(にんじん)、麻子仁(ましにん)、生姜(しょうきょう)、炙甘草(しゃかんぞう)、阿膠(あきょう)です。それぞれの生薬が役割を持ち、弱った心身をバランスよく立て直すよう設計されています。
- 炙甘草(甘草〔カンゾウ〕): 炙甘草湯の名前にもなっている主薬です。甘草を煎ったものを「炙甘草」と呼び、甘味と温和な性質を持ちます。五臓六腑を潤すとともに、全身の気を補い心臓の働きを助ける作用があります。また、緊張を和らげ心悸(しんき)を鎮める効果も期待され、心臓の鼓動が不安定な状態を落ち着かせます。さらに配合された他の生薬同士の調和をとる緩和剤としての役割も持ち、副作用を抑える働きがあります。大量に用いる点に特徴がありますが、その分前述のようにカリウム代謝への影響には注意が必要です。
- 人参(ニンジン): 高麗人参のことで、強力な補気作用(エネルギーを補充する作用)を持ちます。炙甘草湯では心臓を動かす元気をつけ、全身の疲労感や息切れを改善するために使われています。人参は消化吸収を高めて体力を底上げし、虚弱で脈が弱い人に活力を与えます。心臓のみならず脾胃(消化器官)も補うことで、体全体の基盤を強くしようという狙いがあります。
- 大棗(タイソウ): ナツメの果実で、甘味があり脾(ひ:消化機能)を補強しつつ血を養う生薬です。炙甘草湯では、人参とともに気を補い、消化吸収力を高めて他の生薬の働きを受け止める役割を担います。さらに甘草と同様に諸薬を調和し、胃腸への刺激を和らげる働きもあります。大棗の持つ穏やかな鎮静作用は、心悸亢進による不安感をやわらげる助けにもなります。
- 地黄(ジオウ): アカヤジオウ(熟地黄または生地黄)の根を乾燥させた生薬です。【滋陰養血(じいんようけつ)】といって、身体の陰液(体液)と血を増やす力に優れています。炙甘草湯では血液そのものを増やし、潤いを与えるために大量に配合されています。これにより、血虚(けっきょ:血の不足)による動悸や、不整脈の原因となる心筋の栄養不足を改善します。また地黄は体に潤いをもたらすことで、虚労による乾いた咳や喉の渇きにも対応します。体を冷やす性質がありますが、後述の桂枝や生姜によってバランスが取られています。
- 麦門冬(バクモンドウ): ジャノヒゲの根の部分(細い球根状の部分)で、肺や胃の陰を潤す生薬です。甘味と微かな苦味を持ち、乾燥した肺を潤わせて咳を鎮め、喉の渇きを癒します。炙甘草湯では、虚労で乾ききった肺と胃を潤し、慢性的な乾いた咳や咽の渇きを改善する役割です。また心臓にも滋養を与え、不眠や煩躁感(落ち着かない感じ)を和らげるとも言われています。麦門冬の潤す力が地黄と相まって、全身の陰液を補い、甘草や桂枝の温め作用による乾燥を防いでいます。
- 麻子仁(マシニン): アサ(大麻)の種子で、腸を潤して通便を促す作用があります。油分を多く含むため、乾燥した腸に潤滑油のように働き、便秘の解消に寄与します。炙甘草湯では、滋養強壮によって生じがちな便秘を予防する目的で配合されています。古典では「火麻仁(ひまにん)」とも呼ばれ、滋養が行き届いて便が硬くなってしまうのを防ぐ調整薬の役割です。また麻子仁には微量ながら鎮静作用もあり、心身をリラックスさせる一助になるとも言われています。
- 桂枝・桂皮(ケイヒ): ニッケイ(シナモン)の若い枝または樹皮で、身体を温めて血行を促進する代表的な生薬です。炙甘草湯では「桂枝」として処方に記載されていますが、日本では代用的に桂皮(樹皮)を用いることがあります。桂枝/桂皮は心臓の陽気を助け、血の巡りを良くすることで脈を整えるのに寄与します。特に虚弱で脈が弱い人では、体を少し温めてあげることで心拍出量が改善するとされ、その目的で配合されています。また発汗を促す作用も持つため、血行不良からくる胸部のモヤモヤ感や、水分滞留の解消にも一役買っています。地黄や麦門冬の冷えすぎる性質を緩和し、全体のバランスを取る縁の下の力持ち的存在です。
- 生姜(ショウキョウ): ショウガの根茎を乾燥させたもので、体を温め消化機能を整える作用があります。炙甘草湯では、少量ながら温陽(おんよう)作用を発揮し、桂枝とともに冷えを防ぎつつ他の生薬の吸収を助けます。生姜は胃腸を温めて吐き気を鎮める働きもあるため、滋養強壮薬で起こりがちな胃もたれや食欲不振を予防します。さらに、生姜が加わることで薬全体の調和がとれ、体を温める成分と潤す成分のバランスが絶妙になります。古典では炙甘草湯を煎じる際に少量の清酒(日本酒)を加える指示がありますが、生姜と清酒の組み合わせで血行促進効果を高め、薬効を増強する狙いがあったと考えられます。
- 阿膠(アキョウ): ロバの皮を煮詰めて作った動物性の生薬で、コラーゲン質を多く含み補血滋陰(ほけつじいん)の作用に優れます。つまり血を増やし、体に潤いを与える生薬です。炙甘草湯では、生地黄や麦門冬とともに心血を補い、肺を潤す目的で用いられています。虚労による動悸ではしばしば少量の出血(例えば痰に血が混じる、歯茎から出血しやすいなど)が見られますが、阿膠は止血作用も持ち合わせており、そうした症状の改善にも寄与します。
また、阿膠を煎じ液に溶かし込むことで、出来上がった薬液にとろみがつきます。これにより喉から胃までゆっくりと薬効成分が留まり、粘膜を潤しながら吸収される利点があります。動物由来の生薬であるため、製品によっては代替として他の生薬(例えば黒ゴマなど)が使われる場合もありますが、ツムラの医療用エキス製剤では阿膠そのものが含まれています。
以上のように、炙甘草湯の生薬組成は「温め過ぎず、潤し過ぎず」を実現する絶妙なバランスになっています。甘草・人参・大棗で気を補い、地黄・麦門冬・阿膠で血と陰を養い、桂枝・生姜で陽気を通じ、麻子仁で潤滑を保つ――これらが一体となって心臓の機能を立て直し、脈を正常に復する処方となっているのです。
炙甘草湯にまつわる豆知識
名前の由来: 「炙甘草湯」という名前は、その構成生薬の一つである炙甘草(炒めた甘草)を重用していることに由来します。処方全体の中で炙甘草の占める割合が大きく、この生薬が鍵となることから命名されました。また、古い文献では「復脉湯(ふくみゃくとう)」とも呼ばれています。これは先述したように脈を復する(失われた脈を取り戻す)効果に着目した別名で、漢方古典の世界ではその名の通り脈が弱く乱れた状態に対する特効薬として知られていたことがうかがえます。
出典と歴史: 炙甘草湯は中国後漢時代の医聖・張仲景(ちょうちゅうけい)によって記された古典『傷寒論(しょうかんろん)』に登場する処方です。約1800年前の医書に既に記載があり、「傷寒(熱性疾患)の後期に脈が結代し心悸するものにこの方を主る」とされています。当時は感染症の重症例や病後の衰弱で不整脈が生じた患者に、この処方で命を救ったと伝えられています。その後、清代や民国期の中国でも心悸亢進や慢性の心臓疾患の治療に応用され、日本にも江戸時代に伝来して以来、漢方医たちの間で重宝されてきました。現在も、中国では炙甘草湯の処方成分を抽出した製剤が心律不整(不整脈)に対する補助療法として用いられることがあります。
甘草の両刃の剣: 主薬である甘草(カンゾウ)は「百薬の王」と称されるほど有用な生薬で、炎症を鎮めたり筋肉のけいれんを和らげたりと幅広い効果があります。一方で、たびたび述べたように大量に用いるとかえって弊害も生じうる両刃の剣です。炙甘草湯は甘草の力を最大限に活かしつつも、安全に使うために他の生薬で潤しと通じを加え、バランスを取った処方と言えます。このように一つの生薬の長所短所を考慮して配合バランスを工夫するのは漢方処方の妙であり、炙甘草湯はその好例と言えるでしょう。
動物生薬の存在: 炙甘草湯には阿膠という動物由来の生薬が含まれています。阿膠はロバの皮から作られるゼラチン質で、古来より女性の貧血や出血体質の改善薬として珍重されてきました。動物生薬を含む処方は数多くありませんが、その分効果も高いとされ、炙甘草湯では心血を補う要として重要な役割を果たしています。現在市販されているエキス顆粒剤にも阿膠由来の成分が含まれており、この伝統的処方が忠実に再現されていることが伺えます。ただし動物資源の関係で代替処方も研究されており、日本では阿膠の代わりに植物性の生薬である胡麻(黒ごま)を用いた製品も一部存在します。いずれにせよ、生薬一つ一つの特性を活かしながら調整していく点に漢方の柔軟性が現れています。
服用時の味わい: 炙甘草湯の煎じ液は、その成分から甘く濃厚な味になります。甘草・大棗・麦門冬など甘味の生薬が多いため、漢方薬の中でも飲みやすい部類ですが、阿膠が溶け込むと独特のとろみとコクが出ます。古来、この甘くとろりとした服用感が「まるで生命のエキスを飲んでいるようだ」と評されたこともあります。
ただし現代のエキス顆粒剤では煎じる手間がない代わりに風味も簡略化されていますので、「思ったほど甘くない」と感じるかもしれません。風味に関しては製品によって若干異なりますが、苦味が強い漢方が苦手な方でも比較的抵抗なく続けやすい処方でしょう。
まとめ
炙甘草湯は、心身が極度に虚弱となり、動悸や不整脈、乾いた咳などが現れている方に適した漢方薬です。心臓の鼓動を安定させるために、身体のエネルギー(気)と血液・体液(血・陰)を同時に補い、弱った脈を力強く整える効果が期待されます。また肺を潤す作用もあるため、虚弱体質で肺が乾燥しがちな咳にも応用されてきました。ただし、体質に合わない場合や誤った使い方では十分な効果が出ないばかりか副作用のリスクもあります。証の見極めをしっかり行い、必要に応じて他の処方との使い分けを検討することが大切です。
当クリニックでは患者様の症状や体質(証)をじっくりと伺い、一人ひとりに合った漢方薬をご提案しています。
証の判断・漢方薬の選択に悩む場合は長崎クリニック浜町漢方外来までぜひご相談ください。